2021-04-11

野崎観音の謎〜河内の隠れキリシタンの足跡〜

そもそもは渡来のフィールドワーク絡みで、河内湖のことについて調べようと思っていたのだ。
それがこんなことになるなんて、誰が予想しただろうか。

その日は、わたしは大東市歴史民族資料館にいきたかったのだ。
そこは何の変哲もない、特に有名でもないような公民館の一室の小さな資料館だった。
だが、私にとってはわざわざ雨の中に新石切駅からバスで向かうほど大きな意味があった。(割とバスの料金高いのね)
なぜなら、河内湖の歴史について一番詳しく書いている資料館だったからだ。

資料館の中は3部屋ほどしかないが、河内湖の歴史がありありとわかるものだった。丁寧な資料まで無料でもらえる。これらを精査していたとき、中世において河内は、三好長慶の加護のもと、キリシタン大名の三箇サンチョの統治下で大いにキリスト教が反映していたということを知ったのだ。

キリシタン大名といえば、近畿で言えば高槻の高山右近か、九州近辺の諸国大名のイメージが非常に強いが、織田や豊臣が天下を収めていた拠点は近畿であるからして、目の届く場所にキリシタン大名とキリスト教徒が置かれているのは当然と言えば当然だった。どうしてしらなかったのだろう。そして、当時は河内湖は水路があり、野崎近くの観音浜まで船で渡って、岸辺の野崎観音に詣でる「野崎参り」が流行ったそうだ。水路の途中には「角の堂」という砂州にできた大きな三角屋根のキリスト聖堂が建てられていたそうだ。そう、いまの「住道(すみのどう)」のことである。さらに観音浜の向いには参道があり、お土産物などが売られている。この野崎参りは、キリスト教のイースターのお祭りで大型船を湖に浮かべる様子と酷似しているようで、日本に訪れたキリスト宣教師たちも特筆すべきこととして本国に報告をしていたらしい。


△これは今の野崎駅から野崎観音に続く参道だ


△マンホールも河内湖と野崎参り

当時は隆盛を誇り、ほとんどの住人がキリスト教徒だったらしいが、三箇親子は本能寺の変の時に明智方に味方をしたせいで、殲滅をされてしまう。その際に、角の堂は高山右近が機転をきかせて回収をし、大阪城側に移転をさせる。しかし、その高山右近も、時代の流れでバテレン追放令を出した秀吉に信仰を取るか地位を取るかで、キリスト教を選んだおかげで大名を剥奪され、北陸や九州に流れていってしまう。しかし、その信仰心の厚さに現地の人々はもちろん、西洋のキリスト教関係者たちからも尊敬を集めることとなった。ちなみに、右近のゆかりの場所は高槻近辺にたくさんあるので、またの機会にフィールドワークをしたいと思っている。

さて、長くなったがここからが本題である。
その後、人身売買や銀の大量持ち出しなどキリスト教宣教師の活動に隠れて西洋商人が暗躍するようになり、信長も秀吉もそれらに見事に危機感を持って段階的な西洋支配を逃れることができたわけだが(他の国々のように植民地にされなかった稀有な例と言える)、人々の信仰心はそう簡単には変わらない。

元キリスト教が広まった河内湖の場所には浄土真宗が意図的に布教された。仏教というのは政治においても非常に有用だったこともあり、真宗がひろまることで檀家システムに組み込まれ、容易に変わることができなくなった。さらに、太閤検知によって、土地に持ち主が縛り付けられることになり、逃げ出したり、誰かによって奴隷として売られることもできなくなった。そうして、居場所のないキリシタン大名はどんどん日本の南に追いやられていった。そしてきわめつけは、キリシタン大名を朝鮮出兵の最前線に出すことによって勢力を弱め、疲弊させた。非常に徹底している。
もと三箇の領土においても、政府から粛清されることを恐れた住人たちはキリスト関連のものを徹底的に排除した。だから現代に残るものは非常に少なく、認知されることも少なかったということみたいだ。

だから、隠れて信仰するためのモチーフが必要だったのではないか、という話もある。それが野崎観音の話につながるわけだ。野崎寺が実は隠れキリシタンのために作られたお寺であり、その観音様が実は聖母マリアなのではないか、といった話を調べた本がこれである。野崎のキリスト教会の神田牧師がお書きになった本だそうだ。タイトルだけ見ると、トンデモ本に間違えられるかもしれないが、記載されていることは本当によく調査されている。これが発行された当初は結構大きな話題になっていたそうだ。

私はあまり知らなかったのだが、隣の四條畷市にはこれらにリンクする、日本最古のキリシタン墓碑が発掘されているなど、関連するものがちょこちょこ近隣にあるらしい。灯籠に十字架が書かれていたり、キリシタン数珠と呼ばれるロザリオがあったりするそうだ。


△桜のシーズンでとても美しい野崎寺

ちなみに飯盛山の麓にある八幡山は、昔処刑場だったようでキリシタンたちが処刑された場所でもあるようだ。その隣に建てられている寺、ということで殉教者への鎮魂の意味もあるのではないかと考えられている。

いやあ、河内湖って歴史を辿ると本当に面白いな。
それがまた近世になると大和川の付け替えで水路が絶たれ、新田開発になるわけだが、もともと砂地だったこともあって土壌が田んぼに向いてなくて次々に挫折。その代わりに、水捌けの良いところでよく育つ「木綿」をたくさん育てるようになり、河内木綿が特産品となっていく。そして、その付け替えた大和川によって分断されたところの行政区画のひとつで、矢田村に編入した「アマミコソ神社」があるわけで、先日の東住吉の渡来のフィールドワークの話にもつながっていくという寸法だ。

それぐらい、河内湖と大和川(そして近現代は淀川)の治水は大阪の歴史において重要な位置を占めているというわけだ。
水都と言われる意味合いが改めて感じられるのではないだろうか。

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