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2019-08-01

「神の戸」に集まる世界の信仰と生活〜神戸ワールド巡礼&食材堪能ツアーその1〜

7月20日の神戸ワールド巡礼&食材買い倒れ食い倒れツアー、無事に終わりました!!
参加してくださった方、みなさまありがとうっ!!

ツアー自体は三宮を中心に、宗教建築や外国の食材店を散策するという単純なもの。本当は居留地などもゆっくり歩きたかったんだけど、時間がなかったため今回は割愛。少し涼しくなった秋口か春あたりに1日歩いてざっくり明治から現代までの文化のるつぼ過程を追えるといいなと思っています。

いつも思うのが、「宗教」はその当時のその場所の世相や人々の生活、政治、土地環境を投影したものなので、それを追うことは「歴史や文化の変遷を追う」ことと同じだということ。

それらがぎゅぎゅぎゅっと詰まっている神戸は、神戸そのものとしても魅力的だし、世界中の代表的な宗教施設が一箇所に集まる(世界中の人々が一箇所に集まった)場所としても強い磁場を感じるのです。そういったことを振り返られるツアーにできたら素敵だなと思って「ワールド巡礼」という名前にしました。

下見に続いて、買いすぎ食べ過ぎでほぼ赤字だけど笑、天気も雨が降らなかったり、普段いけないとこへ行ったり、絶対入れないとこに入れちゃったり、ケガもなかったし、生田の神様にお祈りが届いたとしか思えないぐらい楽しいツアーでした。参加してくれる皆様が、いつも面白いし濃いし良い人ばかりで、ほんとにありがとうございます💕 ハプニングは、待ち合わせ場所が選挙の演説でえらいことになっていて急遽場所を表口から裏口に変更したことぐらい笑。

今回訪れたところ(順不同)

  • 生田神社(神道)
  • 神戸ムスリムモスク(イスラム教)見学&講話
  • カトリック神戸中央教会 外観見学
  • 神戸バプテスト教会(プロテスタント系)外観見学(前回は中も)
  • 神戸ハリストス正教会(ロシア正教的)外観見学
  • 神戸ジャイナ教寺院 外観見学
  • 神戸シナゴーク(ユダヤ教)ちょっとだけ内観も見学
  • 神戸外国人居留地の碑(元町)
  • 南京町(関帝廟は離れてるので今回は省略)
  • あと付随する食材店と食べ歩き

関帝廟と華僑博物館、そして数駅先の尖塔や壁面彫刻などインド様式を取り入れたエスニックな建築様式で「モダン寺」とも呼ばれる「本願寺神戸別院」、それから駅からだいぶ離れているシーク教寺院以外は、全部行きました。こうして地図で見るだけでも、神戸には多彩な宗教施設が集まっていることがわかります。

赤道を超えても腐らない良質の水が評判の、神の入り口「神戸」

1858年、幕末。江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国に迫られて、日本は各国と不平等な修好通商条約(安政の五カ国条約)
を締結。その条約では、貿易を目的とした函館・新潟・神奈川(横浜)・兵庫(神戸)・長崎の五港の開港と、それぞれに各国の人間の居留する場所を定めることになった。そこで10年後に開港されたのが神戸港である。条約締結から開港までに10年もかかり、さらに締結時の「兵庫津」か4kmも離れた小村「神戸村」に居留地を作ることになったのは、幕末のドタバタのせいで遅れたというよりは、先延ばしにしながら、当時の経済の要衝である大阪近辺からできるだけ外国人を遠ざけたかったのだろうと推測される。

そうこうして開港すると、欧米諸国が貿易での利益をもとめに港に集まり商売を始めようとする。商売を始めるようになると船の往来の間に住む場所が必要にもなるし、周辺の観光もしたい。しかし、せっかく政治や経済の中心地である大阪や京都、江戸を避けて開港したのに外国人が押し寄せて来ては国難につながりかねない。それらを制限するために政府が港を利用する外国人のために定めたのが「居留地(商いが可能で一時滞在ができる場所)」、「雑居地(住居を設けることが可能な場所)」、「遊歩区域(観光できるエリア)」である。

神戸港周辺の約26ヘクタールの居留地だけでは狭すぎるということで、東西は外国人居留地の東西両側を含み、南北は海岸から六甲山系の山裾まで外国人が住居をもうけることを許可したのが「雑居地」である。とはいえ、もともと先にその場所に住んでいる日本人もいるため、「雑居」という形にして、日本人との混住や、日本人から土地や住居を購入することを可能にした。これによって、物資を運搬するための港と山麓を結ぶ交通が必要となり、政府は幹線道路を新設することにした。その一環で、当時氾濫や浸水などのたくさんの水害が起きて評判が悪かった河川たちを埋め立てたり、付け替えることにした。悪臭が問題となって暗渠にされた居留地の西の境界である鯉川(メリケンロード)や、氾濫で河川を付け替えた東の境界の生田川(フラワーロード))もその一つである。

市街開発では他にも宇治川や北野川などたくさんの河川が暗渠化されたり付け替えられた。のちにこれらの道路は拡大され、沿道には外国人住宅が建てられ始める。それらの住宅街の一部が後に「異人館街」と呼ばれるようになった。このうちのひとつとして開通した「トアロード」は、港のメリケン波止場(American Hatoba)から外国人居留地、そして山手を結ぶ背骨のような役割を果たしている。トアロードの坂の上にはオリエンタルホテルに並ぶ人気であったトアホテルが建設された。神戸モスクも、この坂の途中に建てられている。

「遊歩区域」については兵庫県庁を起点(という説もあるが明確な起点は不明)に半径10里以内とされ、その範囲内で外国人は自由に旅ができた。それ以降の場所については「内地旅行免状」という政府の旅券が必要となる。

具体的な範囲としては以下の「兵庫港遊歩規定図」が参考になる(ピンクラインの内側)。(神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズより)

神戸での市街開発は、イギリス人の設計技師であるジョン・ウィリアムハートによって非常に計画的に進められた。以前、上海租界の住居・生活環境がかなりひどい状況にあったことを見て心を痛めていたハートは、神戸居留地の環境整備と西欧型の都市計画を重視した。その結果、建設された居留地は、舗装された道路、赤煉瓦の歩道、下水道の整備、ロンドン直輸入の94基のガス灯など西欧都市に遜色のないほどに整備された街となり、「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と称されたそうだ。今でも三宮・花時計駅前の花時計広場付近に当時の貴重なガス灯(2本)が残っている。そういう意味でも、いつか居留地付近の街歩きもセットでやってみたいと思っている。

世界に開いた神戸の港を支えた中国の人々

開港当時、西洋人は日本語が解らず、日本人は西洋の言葉や商習慣に慣れていなかった。そのため、両者の仲介役として、西洋の商習慣に精通し、日本人と漢字で筆談できる「買弁(かいべん)」と呼ばれる中国人が、居留地貿易で重要な役割を果たしていた。それは、中国人なしでは外国商館の業務や神戸の貿易は成り立たないほどだったという。

しかしそんなに重要な立ち位置にいたにも関わらず、中国(清国)は当時、修好条約締結国ではなかった。条約を結んでいなかった他の国は、居留地を囲むように、東は生田川(今のフラワーロード)から西は宇治川(今のメルカロード)まで、北は山麓から南は海岸までに住居を構えたが、見晴らしの良い東側の山手には当初から居留を始めた裕福な欧米人たちが多数住んで異人館街を形成していたので、中国の人々は、西側の海に近い場所に住居を構えた。それが華人商店街であり、南京町である。その関係で、宇治川に近い西元町駅付近には、中国の人々の心の支えである関帝廟がある。

神戸の地名は生田神社から

開港をきっかけとして、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、シーク教、ヒンズー教、イスラーム教などの多彩な信徒の往来が始まったが、神戸には、開港以前から神社や寺院があった。有名な生田神社もそのひとつである。生田神社のHPによれば、大同元年(西暦806年)に、朝廷より神社のためにお供えする家、世話をする家、守る家である「かんべ」44戸をいただいたとあり、これが「こんべ」となり、現在の神戸になったと伝わる。その意味では、神を支える人々が集まる場所としての「神戸」は、多様な信仰を支える人々が集まる国際宗教都市としてふさわしいと言える。

若くてみずみずしい、機織りと縁結びの女神様、稚和女尊(わかひるめのみこと)が主祭神で、境内の裏にある「生田の森」には水占いでの縁結びのおみくじの結果を見る場所がある。おみくじはよく当たるらしい。ちなみに、生田の森は源平合戦の古戦場でもあったそうだ。夏場の暑い時期には、日光を遮り、木々の間を風が通り抜けるのでとても穏やかな気分になる。

社殿は、神戸大空襲や度重なる震災などでなんども壊されているものの、そのたびに再建されてきたことから「よみがえりの社」とも呼ばれている。

生田神社についてご紹介 | 神戸の安産祈願・恋愛成就・ご縁結びは生田神社

 

東京モスクと神戸モスクの成り立ちの違い

土台が鉄筋コンクリート、ドームが木造の和製モスクである神戸モスクは、日本で最初に民間の信徒の寄付によって建てられたモスクである。

宇高氏の著書「神戸モスク」によると、神戸にできたモスクの特性は以下の通りだったようだ。

神戸のイスラーム教徒の社会の情勢とモスク建設までの経緯をとらえた、福田義昭氏による論考「神戸モスク建立前史:昭和戦前・戦中期における在神ムスリム・コミュニティの形成」には、神戸のイスラーム教徒とその社会が詳細に分析されている。

福田氏によると、昭和の戦前期、我が国屈指の貿易港を有した神戸は、イスラーム教徒の数が国内でも最も多い都市であった。神戸モスクは簡易礼拝所を除き、我が国で最古かつ唯一現存するものと評している。そして、神戸モスクは国内外の信徒の寄付で建てられたことから「国策的文脈の中での日本の資金によって設立された(東京の)モスクとは性格を異にする」と指摘する。なお、東京でのモスク建設は早くからその計画があったが、完成は神戸モスクより3年後の1938年のことになる。福田氏の調べによると、モスクが建立された当時の神戸には、インド、タタール、中東を系譜とするイスラーム教徒がいた。このほか、中国・満州国出身と、東南アジア出身者、日本人イスラーム教徒もごく少数いたとみられるが、史料には明記されていないとのことだ。当時、タタール系は全国的な人口規模で見た場合に、我が国のイスラーム教徒の社会で最大を誇った。しかし、神戸のイスラーム教徒の社会はタタール人のみで構成されるのではなく「民族的多様性を顕著な特徴としていた」と福田氏は指摘する。神戸のイスラーム教徒の社会は、多様な国籍や文化的背景を有する人々で構成されていたのだ。

つまり、前々回の東京でのツアーを行った際に訪れた代々木上原の東京モスクは政治的な思惑の中での上層部で建築されたものに対して、神戸モスクは信徒の寄付をベースにしたローカルなものであるということだ。実際、昨年さんざん設立者のクルバンガリーと、2代目のイブラヒムと、亡命元のタタールスタンやロシア情勢について調べていた時に、その話は出ていたので知っている。ロシア革命での宗教弾圧で逃れてきたイスラーム教徒のタタール人たちは、当時何もなかった代々木上原で原価の安い羅紗の販売(おろしで安い生地を買って、売った差額で利益を出す)をしていたし、同じように谷町の布地問屋で仕入れた布を神戸でも売っていた。その中でたまたま政治活動を熱心に行っていたクルバンガリー、そしてイスラムジャーナリストとして活躍した国際的なウラマー、アブデュルレシト・イブラヒムは別格であり、明治維新後に日本の政府要人となんども会見をしながら、東南アジアや西中国の支配と共産思想の流入回避において有効なイスラームを積極的に取り入れようとする日本と、日本をアジアのイスラームの光としたいイブラヒムたちの思惑が重なって建設されたモスクである。建設資金は主に日本の財閥から出ており、「異教徒の献金でモスクを建築することはできない」というルールがあるなかで、クルバンガリーはいったんすべての援助金を自分の懐に収めて、自分のポケットマネーでモスクを作る、という名目で資金を活用した。

さらに、東京の陸軍、警察、民間右翼団体が支援するクルバンガリーと、神戸のトルコ共和国大使館、神戸のインド系ムスリムが支援するイスハキーという二人のタタール人ムスリム活動家の派閥の反発が大きくなり、イスハキーが東京に講演で出向いた際にクルバンガリー派閥に襲撃されるという事件がおきている。これを受けてイスラームの国内分裂と過激化を恐れた政府はクルバンガリーを理由をつけて国外追放し、そのあとに2代目として前述のイブラヒムををイマーム(モスクの代表)の地位に変えている。そういう意味では、神戸のモスクは自然発生的ななんの束縛もないなかで作られているせいか、とても見た目がアジアっぽい感じのするモスクである。実際、竹中工務店が制作をしているということで、あまり他に事例を見ない、床構造が鉄筋、ドームが木造の銅板葺き屋根という個性的なモスクとなっており、その秀逸さによってその後の大事世界大戦や震災、水害などにおいても耐え残っている稀有な建築物であると言える。(当時の空襲に強い建築が鉄筋で、水害に強いのが木造と言われていた。)。ちなみに、現在の東京モスクはトルコ政府が買い取ってリノベーションを行った2代目モスクであるので、全くのトルコ様式である(ブルーモスクに似ていると言われるのはそのせい)。

ちなみにイブラヒムさんについてはこちら

【BOOK】「イブラヒム、日本への旅」〜伊藤博文とイスラームが出会う時の日本〜

だからこそ個性的な建築技術が光っていると思える。ミナレットの欄干の亀甲型デザインも今まで見たことがないシルクロード風だし、色も赤と白が基調のレトロでシックなデザインだったり、天井のドームが吹き抜けになっていなかったり、色々気になるところがある。そしてまたドームが素晴らしくて、一見するとブルーのドームとなっているように見えるが、これはタイルではなく薄い銅板のサビ(緑青)なのである。当時、東京のモスクとは違ってコストも納期もままならない工期の中で作られた日本の工務店の知恵の一つである。なので、出来たての頃のモスクのドームはおそらく銅色だったのだろうなあ。日本にはないものを日本で代替して再現する力はお見事としか言いようがない。

この頃はちなみに他にもイスラームやインド式イスラームの建築が流行っていたころで、かの有名なシルクロード発掘調査の上で大谷探検隊の大谷光瑞の別荘である「二楽荘」も六甲山の南陵に作られていた。訪問をするのにロープウェーを使ったり、アラビア式の部屋があったり、贅沢の極みのタージマハル似の建物があったそうだ。(大谷光瑞は一部普及目的を携えて中央アジア研究に没頭していた)

イスラム建築学者の深見奈緒子は「新しい日本のイスラーム建築を目指した神戸ムスリムモスクに対して、既存のイスラーム建築からの借り物を再集成したのが東京モスクだと言える」と言っているが、それもわかるような気がする。そして、そのどちらにもそれが背負ってきた歴史文化を含めて魅力を感じるのだ。

まだまだ言いたいことの半分もかけておらず、思った以上に長編になりそうなので、いったんここまでにします!
続きは「パート2で!!」

▼旧居留地・大丸前駅

▼生田神社の記念写真

▼生田の森の水占い

▼神戸モスクのドーム(参加した銅板が美しいブルーを演出)

<参考文献>
神戸モスク

マラッカ海峡物語(この本はマレーシアの話を書くときにも出てきます)

その他色々。

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