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2018-07-08

【BOOK】『日本とイスラームが出会うとき』日本とイスラームの歴史と可能性

最近、インバウンドも意識して日本におけるイスラームの文献をちょいちょい読み始めている。

前回は、私が脳みそを引き出されるような思いをした(笑)この本について一部書き出して見た。

「イブラヒム、日本への旅」〜伊藤博文とイスラームが出会う時の日本〜

この本を読んでいてふと思い出したのが、以下の本である。そうだ、私は昔これを読んでいたんだった。

この本で確か、私は始めてタタールスタンという単語を学んだったのだと思う。

読み直してみると、前回の日記で「初めて深く知った」と書いた近代日本の国策としてのイスラームに関すること、イブラヒムに関すること、日本人で初めてメッカに巡礼をしたムスリム山岡光太郎のことも全て書いてあるではないか!!

あーーーーー二重に恥ずかしい。これぐらいここではさらっと流された内容だったのね。

一般の日本人が外国人ムスリムと直接会い、イスラームを知ったのはいつの時代だったのだろうか?その時日本でイスラームはどのように理解されたのであろうか?また、どのようにして日本人はイスラームへの改宗にまで至ったのであろうか?彼らの改宗にはいかなる社会背景があったのだろうか?

日本人とイスラームの本格的な邂逅は明治中期に始まる。その時から現在まで、日本のイスラームは120年以上の歴史を持っている。(中略)結論を先に述べてしまえば、日本におけるイスラームの歴史は戦前と終戦以降において、その様相が異なっている。戦前は回教政策に伴う政府を主体としたイスラームを推奨する風潮が見られたこと、そして終戦以降は日本人改宗者と滞日ムスリムらが、自らの手で日本国内のイスラーム的な環境を整備して行った特徴が確認できる。

在日タタール人と東京モスク

第一次大戦末期の1917年、ロシアで革命が起こり、のちにソビエト社会主義共和国連邦が成立した。反ロシア・民族運動は帝政ロシア時代から繰り広げられていたが、ソ連の成立により、各地で民族運動に参加していたムスリムたちは独立の好機と思い、祖国へ帰還した。しかし、自分たちの土地がソ連の統治下に置かれると、ムスリム、中でも独立運動に参加もしくは独立運動を支えていた人々は、社会主義政権からの迫害を受けるようになった。ソ連統治下のハルビンや大連などを経由して日本に渡ってきた。東京に移り住んだタタール人の多くは、布地の行商を生業にしていた貧しい者たちであった。彼らの多くは現在の東京・代々木上原周辺に移り住んだ。

当初日本政府は、貧しいタタール人に興味を示すことはなかった。それでも亡命してきた彼らにとって日本は居心地の悪い場所ではなかったようで、当時を知る80代のタタール系トルコ人男性は、「当時は貧しかった上に、色々と生活上大変なことが多かったが、それでも日本人はよくしてくれた」と述べている。

日本政府がタタール人に興味を持つようになったのは、イブラヒムの他にのちに日本イスラーム史において重要な役割を担うことになるムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリーが1924年に来日したことによる。彼はバシュキール人でバシュキリア地方のアルガヤシンスキー県にある代々イスラーム学校を運営する家系に生まれた。彼は日本国内のイスラーム研究に貢献し、イスラーム団体設立など精力的に活動した。その後彼はイブラヒムが実現しようとして頓挫した、東京にモスクを建設する計画を再度進めるために、財政界に働きかけ、寄付を募った。こうして、前回のブログの通り、1938年に代々木上原に東京モスクが開堂する運びとなるのである。そしてその東京モスクの初代イマームが、まさにイブラヒムなのであった。そうして1930年代後半は、日本国内でイスラームを広める活動が活発になった時期である。モスクの建設だけでなく、日本国内で回教圏展覧会が催されるなどイスラームの宣伝活動が行われるようになった。(あー、この辺めっちゃ読んでいた部分なのに忘れていた・・・)。日本軍部は、現地の宗教政策が占領地住民の民心把握にとって極めて重要であると認識し、日本人をムスリムに改宗して参謀部特務機関および軍政要員として任用する措置が取られた。ムスリムとなった日本人は「回教班」として情報収集および政治工作に従事した。こうしてにわかであるが日本人改宗者が増えた。また、太平洋戦争中には、インドネシアやマレーシア戦線に派兵され、そこで現地のイスラームに触れ、改宗した日本人がいた。そのような人々の中には、終戦後も日本には帰国せずに現地にとどまる者たちもいた。

戦後海外に出る日本人とイスラーム

戦後の高度経済成長に伴い、日本企業が次第に海外に進出していくようになると、イスラーム諸国と仕事上の関係を持つ日本人も増えていった。例えば、アラビア半島で石油ビジネスなどに携わっている日本人が、仕事を円滑に進めるためにムスリムになるケースも見られるようになってきた(かつての隊商でうまく取引を進めるために改宗したヨーロッパ人のように)。
1970年代、日本社会はマスメディアを通じて中東で起きた事件などを知り、中東の宗教・文化に次第に着目するようになった。一般の日本人のイスラーム理解は未だ誤解や偏見の域を脱してはいなかった。その理由は、ひとえに欧米経由で流れてくる情報を頼りとして中東を理解していたためである。しかしながら、外国人ムスリムと日本人ムスリムとの協働で、日本のイスラームは少しずつではあるが広まりを見せるようになった。この時期、日本国内のムスリム人口は3万人にまで達するようになった。

高度経済成長期の日本におけるイスラームの状況

高度経済成長期の日本におけるイスラームの状況は、バブル期と言われる1980年代後半から1990年代初めまでの間で日本に大量に外国人労働者が流入した頃から始まる。当時の日本は3K(きつい、汚い、危険)な仕事の人出不足を補うのに、外国人を雇わざるを得ず、多くの外国人ムスリムが日本に流入することになった。そんな彼らが、そのまま日本に滞在するケースが増加し、社会問題にまで発展したのもこの頃である。イスラーム圏からは主にイラン、パキスタン、バングラデシュ出身者が来日した。当時の日本はこれらの国と相互に査証免除協定があったのも事態に拍車をかけた。(そして、研修ビザや入管法が厳しくなっていったのである)

バブル崩壊から現代まで

バブル崩壊の四年後に、先日死刑執行が話題になった地下鉄サリン事件が起きた。日本のイスラムが普及しない要因の一つとして、この時期に起きた破壊的新興宗教団体による無差別テロ事件のため、日本社会全体に「宗教フォービア(嫌悪)」ともいうべき宗教に対する拒否反応が発生したことを指摘しなければならない。ただ、これ単体で宗教フォビアが起こったというよりは、その後の極め付けの9.11のアルカイダのテロ事件を持って日本の「イスラーム」を含む宗教フォービア感は確立されていったと言えるだろう。

そして、現代の日本におけるイスラームに起きる無視できない動きとして、東南アジア各国の経済成長による観光とハラールビジネスが挙げられる。このようなビジネスが基軸となったムスリムへのアプローチは、過去のバブル期の石油ビジネスや、労働力としての外国人ムスリム受け入れと通底する部分もあるが、それは新たな相互理解への萌芽も垣間見られる。

産業観光としてのイスラーム

観光産業においては、各観光地の企業のみならず、地方自治体もバックアップして外国人観光客の日本招致を積極的に推進している。2020年にオリンピックが東京で開催されることもあり、ムスリム対応の設備としてキブラの設置やハラール食の提供など積極的な試みが生まれている。ほんの数年前までは、外国人観光客としてターゲットになっていたのは中国人であった。しかし、領土問題などの政治的事情で観光客が減少すると、次に注目されたのは経済発展が続く東南アジアの国々であった。東南アジアの国々では、様々な宗教が混在しているが、中でもムスリムの多いマレーシアやインドネシアは経済成長が著しく、地理的な近さもプラスになって日本から観光招致を積極的に行っている。

ハラール関連産業の新たな胎動は、東南アジアからの観光客招致だけが理由ではない。日本国内の製造業者は日本製品が「安全で質の良い」物であることをセールスポイントにして、東南アジアへの販路拡大に目を向けている。ハラールは、常にそれがハラールであることを証明しなければならない。どの国のムスリムにとっても、ムスリム自身が身につけたり口にしたりするものにはハラールであることは当然である。不正表記などもってのほかで、不注意・不祥事として謝罪すれば良いという問題ではない。最悪、国際問題に発展することにもなりかねないリスクもそこには孕んでいる。

地域社会との関わり合い

イスラームは古くからある伝統的な宗教であるが、日本社会においては伝統的な宗教としての扱いを受けていると言えるのだろうか。筆者は、参与観察やインタビューの中で、残念ながら今日まで日本社会の閉鎖性と排他性を克服し得ていないとよく実感する。また、筆者は日本社会でイスラームは「宗教」である以前に「海外の文化」として日本社会に未だ馴染んでいないという「疎外感」を強く感じる。

筆者のインタビューの中でムスリムであることをやめた女性のコメントで

「会社でも街中を歩いている時でも、日本社会に生きていることを意識させられることがある。特に仕事関係。例えばは上司や同僚と話していることきや一緒に食事をする時、こっちがイスラームの教義を重視すれば、私は付き合いが悪く、社会性も協調性もない人間だと思われてしまう。自分がムスリムであり、イスラームを実践するということを周囲に知らせて守り抜くということは、よほど肝が座っていなければできない。それに協調性を求められているところで働くこともできない。日本で生活をするということは、日本社会に合わせるということ。そうでなければ、ムスリムとして普通に生活することだって難しい。今後も私は日本で暮らしていく(ように生きる)。だって私は日本人だから。」

というものがあり、これは宗教的弱者というよりはどのマイノリティにも当てはまる現代の歪だなあと個人的には思う。

イスラームが多くの日本人に受け入れられるためには、イスラーム的な考えと日本人の宗教観とを融合する神仏習合的な考えを取り入れることが必要であると筆者は言う。だが、ここにもまた新たな矛盾が生じる。日本式にカスタマイズされた大乗イスラームがイスラームそのものではないとされることを指摘したように、イスラームの教義そのものをカスタマイズすることは、別の宗教とみなされる恐れがあるのである。それは土着化の過程で生ずる問題でもあり、だからこそ難しい状況なのであると。

私は個人的には、イスラームのもたらした「文化面」に着目したシンクレティズム的な考え方はできるんじゃないかと思ったりしている。それはもう誰かの宗派が考える基準に照らし合わせての「正しい」「純粋な」「厳格な」イスラームではないのかもしれない。だが、そもそも開祖ムハンマドご当人や、正統後継者や絶対的統率者(カリフ)の存在がなくなってしまった今、コーランに書いていることそのものやコーランの解釈が真に正しいかどうかなどは誰にもわからないし、時代が移り変わるに連れて「解釈や習慣」も進化していくだけなのだと感じている(実際にムハンマドの教えも前半の10年と後半の10年で時代や宗教の拡張によって変わって来ている)。そういう土着化の緩さがないとそもそもそんなに多様な場所や民族で同じ宗教が受け入れられるはずがない。そしてその解釈の多様性とシンクレティズム的な要素を容認する懐の深さが、私の惹かれるイスラームのかつての文化的な連帯感であり、魅力なのである。

その魅力から「イスラーム」という言葉だけを抜いて、多様な人が行き来し交流しながらも、どこか文化的に繋がっていると感じられるような、クリエイティブでホッとする箱庭を奈良の奥大和に作って行きたい。その多機能的な文化交流創造拠点としての箱庭に名前をつけるとしたら、一番近い存在がキャラバンサライ(隊商宿)だと私は思う。

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