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2018-05-13

【BOOK】『一緒に冒険をする』〜自己の解放と実現を手にするために〜

「自由」が欲しい。

ここ一年ほどは、ことあるごとに「人生において、自分の責任で自分の身の振り方だけを考えれば良く、それに対して誰の何の物理的精神的な干渉や圧力も受けず、好きな人達と出会ったり切磋琢磨し、旅と文化とコミュニティに関わる仕事を作って皆が好奇心の赴くままに自由に助け合いながら生きられたら、どんなに楽しいだろう」と思っている。
いや、生まれてこのかたずっと思っているかもしれない。

まさに、何も気にする必要のなかった大学生活時代、東京での一人暮らしの十年がある意味そういった貴重な期間であり、仕事面ではまだまだ未熟であったものの、恵まれた生活が送れた。そしてその自分のライフスタイルを押し通してきた期間は「モラトリアム」と称して、本来責任を果たさなければならない家のことはほったらかしにしていた。そう言ったいわば贖罪的なニュアンスもあり、本格的に介護の手が必要となったタイミングで家に戻ることにした(もちろん元々奈良の環境自体は好きであったのだが)。そして、そこから一年という時間が経った。

誰かが介護をしていると、家にいてもどことなく空気がピリピリしていて落ち着かないし、調整して家を空けたら空けたで介護ができていないことに対しての目に見えないプレッシャーがかかる。そして、結果的に家の中で介護疲れを和ませようとしたり、癇癪が起きないように気を使っている時間も多いわりに、大した効果がない(笑)。そうすると家や家族のこと自体は好きなのに、不満を聞き続けたり家族に気を使いながら家にいることでだんだん疲れる。また、自分が思う時間に気兼ねせず予定を入れたり働いたり外出ができないこと、自分の勉強や作業に集中する時間やプライバシーが確保できないこと、家族の気分を晴らそうと努力してみても思うようにいかないことにストレスが溜まって身体が重くなっていく。

それは生まれ持っての因果だから言ってもどうにもならないことだし、時々カンフル剤のように対処療法として外出したり、イベントをやることで気持ちを切り替えようとしてはいるものの、日々手探りで生きているとだんだん諦観気分に囚われて何もしたくなくなってくるし、自分には何も出来ないと運命付けられているような絶望的な気分になることもある。「どんなに前向きに抵抗しても、自分にはこの状況を好転させることは無理なのか」と。

そんな時に、この本を読んだ。

西村さんとゲストの対談の中に、色々共感したり、心に沁みる言葉があった。自分の思考の整理も兼ねて、いくつかランダムに抜粋してみる。

僕らの意識はどうしても「できない理由」を作りたがる。そういったことを(冷静に)取り外す。自分のジャッジを外していく。自分自身を批判する意識は誰にでもあって、それが働きやすい。けど、できっこない現実があるのではなく空想で「できっこ無い」と思っているわけです。それを取り外していくと自分の中のパッションがより掻き立てられる。そのために、「(行動する前に自己意識で)ジャッジしている自分」に気づくことが大事。

・病気の原因は「食事」「運動不足」「ストレス」。これらを変えることが現代人の疲弊の治療となる。さして深い意味のないことが、当たり前のようにまかり通って人間性を抑圧している。その抑圧や不自然さの原因は、要は今の日本の経済中心的なやり方で、そこにすごく無理があるのだと思います。病気というのはある意味「自分らしくない生き方をしている」という警告反応なのだと思う。内側から湧き上がってくる感情や欲望にまず素直になることが大事で、そこから派生してきたものなら、僕は長続きすると思う。食事と運動と休養も。

・自分のことをほっとかない、解放してあげる。温泉に行ったりお茶をしたりヨガに行ったりして疲れを癒すのが大事な時期もあるけれど、それは割とすぐできる気がする。解放っていうのはそれとはまた違う気がしていて、「自分が開く感覚」っていうかな。自分自身を楽しめるというか。

・みんなにとって会社は、異空間を楽しめて、そこで自分の得意なことを生かしきれる場所だといい。だからある程度制約がなくて、なるべく「誰が何をしてもいい」ような。みんなでしていることに楽しさを見つけられて、この会社に来るとこんな発想がでてくる、という。深呼吸しながら存分に自分を発揮できる。多様性があって、調和がとれている。そんな環境を作りたい。

・同じ数字を考えるにしても、売り上げ目標ではなく、例えば「そんな体現者を10万人作ろう!」という具合に目標を立てる。つまりコトを挟むんです。モノだけを売っている意識になってしまうととても心が疲れるし、続かないんじゃないかなあ。これは会社の目標を立てる上で一番大事にしている部分なんですね。

・心地よく働くことと、世の中のスピードについていくことの、二つの軸を両立させるにはどうしたらいいんだろう?と思います。変化できずに固まって倒れてしまったら、働く場を提供し続けることができないわけだから。安定というのは二極のもので、変化し続けるから安定する部分と、落ち着いていることで安定する部分がある。その選択が大事なんだなということはすごく考えるようになりました。

・短い時間でもきく練習をするとわかりますけど、人が話していることを本当に聞いていると、考えている暇はない。きくには自分のことをちょっと横に置く必要がある。なので、「きく」というのは自分の全注意力を向けることであって、重点は(要約ではなく)むしろその姿勢や態度の方にあります。
もうひとつ「話す」というのは「手放す」ということだと思います。心や身体の中で滞っているものが、話す場をもらうことでどんどん解放されていく。すると楽になって。さっきまで「他人の話なんか聞きたくない」と思っていたのに、放して空っぽになったら、聴けている自分がいるんですね。どんな文化が育つとしても、その根っこには人がいる。そして人と人との相互作用は、「話す」ことと「きく」ことになるはずだね。どんな文化もそこから始まることになるんじゃないか。この問いは面白い。「生きる」に直結することだと思います。

・農家も家の手伝いも楽しんで働く工夫があるんですよ。そんな環境で育った自分が、社会に出て、都市で働き、暮らし。でもそこで「当たり前」とされていることにあまり納得がいかず、そんな時に旅に出て、よその国の暮らしを見た時に「やっぱりこれでいいんだ」「こんな暮らし方がしたいなあ」と現実的に思えるようになった。

・意識して対峙する。ちゃんと丁寧に付き合おうって。それをやることが家族だな、と思って。友達が来て時間が許すなら一緒に話を聞く。一緒にお茶を飲む。ということも丁寧にやるとどんどん面白くなっていくことがわかって。「家族」っていうのは、それをする場なのかなと。

・自分が知ったことを人に伝えることはできる。けど、「体験する」には本人が自分で動いてゆかないと。やっぱり身体を使って感じることが、すごく大切だと思います。よく「本当の自分って何だろう?」という問いかけがあるじゃないですか。それって私は、知るというより「体験する」もののような気がしていて。自分というのはすごく深遠で、本人も知らないことだらけだし、それは解明できない。でも、体験することはできると思って。

これらのプロセスから、どうやったら自己実現の希望を優先しながら、家族も支えられるような暮らしかたができるのかもう一度考えてみようと思った。そういう意味では、今まで半ば諦観していた部分もあったが、これを読んでみて、今までの努力の力点を少し違う場所に置くことで開ける道があるかもしれないと感じた。

  • 身近な人に「話す」ことで自分の重荷を手放し、客観的なジャッジや意見をもらうことで、「自分の思考の檻」かもしれない部分をできる限り減らす。(強制的に自己意識の切り替えと、行動へのブレイクダウンにつなげていく思考プロセスを何度も作る。
  • 家族と丁寧に向き合い、きちんと自分のことを話しあう時間を設ける。
  • 自分のやりたいことや感情に対して丁寧に向き合い、尊重する。放っておかない。
  • 何らかの形で自分の軸を軌道修正するために旅に出続ける。
  • そうはいってもこの一連のこの経験がなければ、ここの結論に行き着くことはなかったし、介護や、同じような家の事情で悩んでいる人の気持ちもわからない。(「自分が動いて、体験することで自分を知ることに近づく」から、遠回りでも今までの経験が自身の血肉になっている。)

そして、なぜ自分がこれほど自由な旅や、文化や民族の多様性や、ゆるいコミュニティに惹かれたり、誤解を受けがちなイスラームや奈良の豊かな側面に興味を持つのかというと、他でもない自分自身がマイノリティとして社会の中で抑圧や制限や干渉を経験し、それに向き合い続けながら生きて来たからだ、ということもわかった

だから、私はいろんな場所や人と出会いに行きたいし、出会ったどんな人や場所ともフラットな関係でいたいし、自分のアイデンティティや興味や、やりたいことを解放したり尊重できる間柄でありたい。いつの時代でも、どんな場所でも、どんな人でも。

それを求めて、私は本と足で古今東西の旅を続けているのかもしれない。

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